自立と“依存”のグラデーション

ハッピースクエア火曜日ブログ担当兼管理者の牧野です。

今月のテーマは「自立」

6月は「自立」をテーマにお届けしてきました。

  • 第1週では「そもそも自立って何?」をざっくり考えてみて、
  • 第2週では「“できる”と“自立”は違うかもしれない」という話をして、
  • 第3週では「支援の中の“自立”」が誰目線か、という問いを共有しました。

そして今週はいよいよ最終回、
テーマは 「自立と“依存”のグラデーション」 です。


“自立”と“依存”、本当に真逆?

支援の中でよく出てくる言葉に「まだ依存してる」「もっと自立してほしい」があります。

でもそれって、本当に“真逆”の関係なんでしょうか?

誰かを頼ること=依存、と考えるなら、
たぶん多くの人は「完全自立」なんてできてないはずです。

たとえば電車で通勤するのも、スマホのナビを使うのも、買ったお弁当を食べるのも、
実は誰かの力を“頼ってる”わけで。
それをいちいち「依存してます」とは言いませんよね。


“依存”を否定しないからこそ、“自立”が見える

実は、“自立”と“依存”はグラデーションの中にあるものだと思っています。

全部自分でやるのが偉い、わけではなくて、
「どこを自分でやって、どこを人に頼るか」
そのバランスを自分で選べることが、“自立”のひとつのかたちなのかも。

自立を支援するとき、つい「できることを増やそう」と考えがちですが、
「頼り方を一緒に考える」ことも、立派な支援だと思うんです。


“自立”って、自由に頼れることかもしれない

たとえば、
・できない部分を「できない」と言える
・「助けて」と言える
・頼った後に「ありがとう」と言える

これって全部、“自立”の力だと思うんです。

「自分でやらなきゃ」じゃなくて、「どう生きたいか」「どう暮らしたいか」
そのために、どこを自分で担い、どこを誰かに任せるか。

それを一緒に考えるのが、僕らの仕事かなと感じています。


今月は「自立」というテーマを通して、
支援の基本や、本人の視点、そして僕ら自身の支援観についても少し立ち止まってみました。

「これが正解!」なんてないからこそ、支援の現場は奥深くて面白いのかなと思ったりします。


今週も読んで頂きありがとうございました。ではまた来週!!

編集後記(ただの独り言)

カタツムリ、最近見ない。
梅雨なのに、全然いない。

昔はいたのになぁ。
濡れた葉っぱの上とか、ブロック塀の上とか。
雨の日がちょっと楽しみだったのは、あいつらのおかげだった気もする。

夢中で集めて、手に這わせて、並べて。
気づいたら十数匹。
……で、捕まえすぎて母に怒られた、あの日。

あのぬるぬる感と、のそのそした動き、なんか好きだったんだよなぁ。
どこ行っちゃったんだろ、カタツムリ。

別にまた集めたいわけじゃないけど……
たまにはさ、1匹くらい出てきてもいいと思うんだ。
雨の中をじっと見つめるおじさんがひとり、ちょっと怪しいだけだから。


……というわけで、気になりすぎて、ChatGPTに「最近カタツムリ見ないのってなんで?」って真面目に聞いてみた。

そしたら、いろいろ理由があるらしい。

ひとつは、環境の変化。
昔に比べてコンクリートやアスファルトが増えて、カタツムリが住めるような“湿った土のある場所”が減ってしまっているらしい。なるほど、たしかに今の住宅街って、草むらとかブロック塀の裏とか、そういう“カタツムリっぽい場所”が思い浮かばない。

それから、天敵も増えてるらしい。
ヒヨドリとかの野鳥に加えて、ナメクジやアフリカマイマイみたいな外来種の存在が、地味にカタツムリを追い込んでるんだとか。そんな過酷な世界で、のんびりのそのそ歩いてたら、そりゃ大変か……。

あと最後にちょっと刺さったのが、
「大人になると探してないだけ説」。
昔は葉っぱの裏とかしゃがんで見てたけど、今はただただ前を向いて、目的地までまっすぐ歩いてるだけかも。あいつらがいないんじゃなくて、こっちがもう見ようとしてないのかもしれない。

――うん。
なんか、ちょっとだけ反省した。
今度雨が降ったら、少し足元を見てみようかな。

……で、もしカタツムリを見つけたら、
「おーい、まだいたんかい」って言いたい。

あっそうそう。先週間違えて月曜にブログを書いていたのを今気が付きました・・・

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